一応、邦画劇場

過去の自分、現在の自分、そして未来の自分に向き合う映画鑑賞

響 -HIBIKI-

私的評価★★★☆☆☆☆☆☆☆

響 -HIBIKI- DVD通常版

 (2018日本)

 小論社の文芸誌〝木蓮〟の編集者ふみ(北川景子さん)は、編集部に置かれた廃棄のBOXから、新人賞の手書き応募原稿を拾い上げる。「ネットからのみ受付」という募集要項を守れていないため、未開封のまま廃棄処分される予定だったその作品は、鮎喰響(平手友梨奈さん/欅坂46)という15歳の女子高生が書いた「お伽の庭」という小説だった。原稿を読み進めるうち、ふみは作品の持つ圧倒的な力に息を呑み、作者の響が、絶対的な才能と文学界に革命を起こす力を持っていると確信する。しかし、送られた原稿には響の連絡先の住所も電話番号も書かれておらず、新人賞に推したいふみは、当てのない響からの連絡を待ち続けた。そんなある日、有名人気作家の祖父江秋人(吉田栄作さん)の家にコラム原稿を受け取りに来たふみは、作家の娘・凛夏(アヤカ・ウィルソンさん)と一緒にいた響と偶然にも出会うことになる。響は〝木蓮新人賞〟を受賞するが、エキセントリックな行動で物議をかもすことに……。


 言葉を鬻ぐ者としては、誰かが自分に向けて放った言葉にこめられた言霊には真剣に対峙し、真剣に返さないといけないのかもしれない。
 その結果が「売られたケンカは買う」という直情径行な暴力になって現れる主人公の少女を見ていると、自分に近しい発達障がいの児童の行動と被って見える。
 たぶん、ボクとは見えている世界が違う、というか、同じ世界を見ているのに見る方向が全くと言っていいほど違うんだと思う。

 気に入らない先輩の小指を折る。校舎の屋上から転落する。文芸部の本棚の作品の分け方が気に入らなくて、自分の背丈より大きな本棚を丸ごと倒す。友だちにゲスな言葉を浴びせるセクハラ文化人に回し蹴り一閃、椅子ごとひっくり返す。自分の作品を読みもしないで見下したエラそうな新人作家を、受賞会見の場なのにパイプ椅子で殴り倒す。諸々の人々に怪我をさせた挙句、顔を突き合わせて威圧的にド正論ぶちかまして威嚇する。
 他人に対し、常にナイフの刃先をむき出しにして対峙するような、少女の真剣さに疲れ果ててしまう。
 常に緊張を強いられる彼女の人柄は、自分の生活圏にいたら、ストレスで心身ともに壊れてしまいそうだ。
 響いわく「昔は天才だった」鬼島仁(北村有起哉さん)のセリフを借りるなら、ボク自身が〝自分の世界と現実に折り合いがついて惰性で生き続けてるだけ〟の大人だから、そう感じるのだろう。そんなボクの生き様を否定し、ボクが長年かけて折り合いをつけてしまった〝常識〟という名の価値観を、彼女にぶち壊されるのが怖いからに違いない。
 だから、動物園だとかファミレスだとかで、文芸部の部員同士はっちゃけてる?響を見て、ボクには嘆息するしかない。何にも媚びず、忖度せず、真っ直ぐに自分を立てて人生を謳歌している少女の姿に、ボクは打ちのめされるしかない。とても、彼女の可愛らしさを感じる余裕を持てない。

 しかし、とにかく、彼女なりの正義を貫き通すために、ただちに暴力に打って出る響には、共感できない。
 ふみも言ってるけど、確かに響に暴力をふるわれたオトナの方が、どうしようもないクズな振る舞いをしたんだけども、だ。
 彼女のやり口には、暴力で気力を奪い、思考停止に追い込んで洗脳する犯罪者たちのやり口とイメージが被り、恐怖しか感じられない。
 この作品がもしも〝腐ったオトナに鉄槌を下す少女の痛快エンターテインメント〟だというのなら、主人公は小説家じゃなく、必殺仕事人もどきにしておいてほしいと、切に願う。


 ところで、この映画を見て、最初に感じた違和感について触れたい。
 響という少女が、何ゆえ「文学界に革命を起こす力を持っている」と、ふみに思い込ませてしまったのか?
 文壇のお歴々が、口をそろえて「お伽の庭」を絶賛し、彼女の才能にひれ伏すようにするのは、どうしてなのか?
 たとえば、スポーツ選手を描くなら、そのスポーツの面白さや主人公の選手の凄さをビジュアル的に分からせることができる。
 しかし、小説家だと、作品の面白さだとか、作品の凄みだとかを可視化するのは難しい。
 響の才能を誰もが絶賛するが、映画の観客には、彼女のどこが凄いのか、何一つ画面から伝わってこない。見えてくるのは、彼女の奇行ばかり。
 もしも、彼女に誰をもうならせるほどの文才が無かったとしたら、本当にただの迷惑な隣人でしかない。
 彼女のイメージを先鋭化しているのは、目に見える奇行以外は、登場人物(と、その人たちの権威)がもてはやす〝賞賛の言葉〟だけなのだ。
 ボクが響の凄さに納得できないのは、ネットで一方的に並べ立てられるレビューしか見てない状態だからに他ならない。
 「お伽の庭」を読めないから、彼女を正当に評価できないのだ。
 言うなれば、新人賞受賞の席で「お伽の庭」を読んでなくて、響を〝話題作りだけの作家〟と見下した田中康平柳楽優弥さん)そのものが、この映画の観客なのだ。
 AMAZONのレビューが揃って5点満点だけみたいに祭り上げられたカリスマ作家の作品を、本の装丁の写真くらいしか見てないのに、素直に〝面白うそうだから買おう〟と受け入れるのは、ボクには無理。
 小説という題材の本質的な弱点でもあるかもしれないが、響に魅力を感じづらいのは、そこだと思う。




 いろいろ感想書いたけど、とにかく一番気になったの、ココ!
 「お伽の庭」を読んだふみが、電話口で響に〝生き方の正解を感じました〟って興奮気味に感想をまくし立てるんだけど、15年しか生きていない少女にオトナが教えられる〝生き方の正解〟って、どんな生き方なんだろう?




 ゴメン。目にかかりそうな前髪が生理的に受け付けないのと、小説家とは友だちになれそうにないので、★3つでカンベンを。
 あと、それぞれの時代のカリスマ的人気を誇るアイドルではあるけれど、平手友梨奈さんを山口百恵さんになぞらえるのは、やめてほしい。
 無意味だし、世代の異なる双方のファンの無用な軋轢を生むだけで、失礼でしかないと思うんだけど。


●監督:月川翔 ●脚本:西田征史 ●原作:柳本光晴(コミック「響 〜小説家になる方法〜」/小学館ビッグコミックスペリオール」連載中)